RANDOM VOICE 2001izen


20011211
 合掌、小松崎茂様
 老齢になっても、筆を持ちつづけた先生には敬服いたします。
 あの画に、夢を馳せたのは確かです。SF物と言って普通の画家があまり触れたがらなった分野を切り開いた氏の功績はずっと残るでしょう。ご冥福をお祈りします。
20011210
 猫が来てから1年半が過ぎた訳だ。
 1号猫は、けっぽっても(けっても)まとわりついてくる猫の典型のような猫だった。それがある意味恋しいなあ。
 1号猫は、冬の寒い時は何時の間にか私の股間に入り込んで寝ていたものだが。  
 2号猫グーは、ステレオ装置に悪さをしたときかなり激しく殴ってからというもの、私には近寄らない。
 まあそれも猫らしい、といえばらしいのか。 
○ 映画論  1999,11,09

 先日若い方と、映画について、意見の相違があり数回メールにて議論した。先方の理論はこうであった。
「レンタルビデオで、何々をみたが、これは映画館で見なくて良かった。1500円払わずに100円ですんだ。良かった良かった。」

 おやぢの意見はこうだ。「作品を批評するときには、それが再生されるであろう環境を整えてからにしないと、言ってることがわからないよ。」つまり、映画だったら、劇場等の大画面で再生されるのを製作する時から考えられているのだから、それ相応の装置を準備してないと、良い、悪いはいえないんではないか?

 それに対して、彼は言った。「再生装置は関係ない、いいわるいを決めるのは私なのだから、装置は関係ない。レンタルビデオ、VHSだって、何が映っているのかわかるんだから、装置のことがどうのこうのというのはナンセンスだ。私が、いい映画、面白くない映画(=B級)をきめるのだから。」
おやぢは言った。
「ラジオでオーケストラ演奏を聞いている人は、この演奏はつまらない、といっているときそれがどのくらいの意味を持つのか。生演奏をきいていれば、人間の耳の能力からすればいろいろな情報が聞き取れるが、それもなくて、ラジオだけの場合は、その話の起点がどこにあるのかわからない。自分の家にオーケストラをつれてくることはかなり難しいのだから、われわれはできる限り、オーケストラが再生されるであろうことを推定している環境を作っていかねばならないのではないか?その上で評価をすればよろしい。」と。

 ここまで。

 しかし、ここまでいうと、面白みがなくなってくる。いいわるい、面白い面白くないというのは、主観的問題だ。料理がおいしい時、これは食材が何、焼き方が何で、どうのこうの言ってたらまずくなってしまう。おいしいものはおいしいといっていいのだ。それを、細かいことを言うようになるから、みな評論家になってしまい、楽しみが逆に狭隘化するのかもしれない、とあとから気づいた。
映画だって、役者が何歳で、どういう服を来て、何のコンピューター技術を使っているなどと考えながら見ていたら、つまらない。そのまま受け止めて、ああ良かった、とか思うものですね。

結局、私も、同じように言葉を使っている。
先日、子供たちが借りてきた、「デジモンアドベンチャー劇場版」序盤、中盤ともできはすごくよく、おお-いいジャン、と思っていたら終わってしまった。20分ものだった。みんなで言っていた。「ああ良かった映画館に行って、期待して見てたらがっかりするよねえ、これ。」「ぴかちゅ-の冬休み」も同じだった。

199906
猫2号がやってきた。灰色のアメリカンショートヘアーの混血者だろうと思われるが定かではない。そば色だったので、「そば」と名づけられそうになったので、グレイの「ぐー」と名づけた。オス猫で、こいつがいろいろ事件を引き起こすのは先の話だ。

最近身の回りでの出来事で、エモーショナルな事件が前回の猫1号の件であった。
19990404
 猫が死んだ。死因は不明である。

 猫だった柔らかい塊を持ち上げた時にはまだ生暖かい物体は家の猫ニーコだった。
 鼻から出血していた。ニーコはうつろな目を少し開いて、横たわっていた。

  雨の日に、長女が拾ってきた猫だった。生まれ立てで箱に入れられて捨てられていた。「すぐにすててこい」私は言った。長女は、半分狂ったように懇願した。「そのままおいといたらしんじゃうよ」 
 妻が、家に入れることを認めた。ねこは、死なずに育った。
 私が小さなころ、「ペット」の死を数々見てきたので、「ペット」は出来れば家に入れたくなかった。猫の世話について、私は無関心を装った。
 猫は、私の寝るフロアにいた。風呂上りと、寝るときには、どこからとも無く現れて、足にまとわりついた。寝ているときに布団の中にもぐりこんでくるのを蹴飛ばして追い出した。そのあと、またもぐってくるのだった。
 100万円のスピーカーで爪とぎをしたときには、ひっぱたいた。部屋に入れてほしいときには、「入れてくれよ」と鳴いた。外にでたい時には「出してくれよ」と鳴いた。長男にのしかかられるときには、「重いじょお」とないた。部屋で一人(一匹)でいて、私が帰っていくと、「おかえりい」と鳴いた。

 いつかいなくなってしまう時が来るとは予感があった。猫はふらっといなくなってしまうものだ。

 しかし横たわっている猫は、いなくならずに姿を見せた。

 買い物に出かけていた家族が帰ってきた。2歳の長男以外はみんな泣いた。失禁が始まっていた。本当に息を引き取った直後だったようだ。気力があるうちに埋葬した。

 長女が拾ってきたあの雨の日に終わっていたかもしれない命であるが、まだ恋もしていなかった命でもある。
 
 9つの命があるなら、またあえるかな。